与論シマライフログ

HSP、HSC、与論の事、舞弦鼓、四柱推命、気づきなど、色々書いてくブログ

子ども達の居場所を その1 

不登校になってから、約2年ががたちました。

 

http://azi-yoron.hatenablog.com/archive/category/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%AB

 

 

いろいろ思い出しながら、葛藤から、現在まで。

 

1年生時の登校しぶり

1年生の時、盛大な登校しぶりがありました。

なかなか学校に行きたがらないということを「登校しぶり」

というのも、この時しりました。

 

自分は、学校が合わなかった人間だったのでこの時から

「もうそんなにキツイなら行かせなくていいんじゃない?」

と家族会議でも話していましたが、なかなか意見が一致せず。

学校教育が合う人と会わない人がいる。

自分は合わない方だった。けど、必死にあわせようとしてた。

小学校時代の生きづらさ、今でも思い出します。

「一人になりたくない」と毎日帰ったら神棚に拝んでいました。

 

 

ある日、

「学校から、息子が来てないんですが」

と電話がきて、いや、校門まで確かにいったのに。。。

と思い、いくら探してもいません。

 

どこいった?

1人で不安じゃないか?

事故に巻きまれてたら。。

と不安な中、探し回ったら、以前通ってていた子ども園にいってました。

 

こども園にいると連絡があったとき、安心して、涙がでてきました。

元気でした。が、ちょっと罪悪感があるからか、なんともいえない表情をしています。

 

1年生の頃でしょうか。

このころから

「僕の事きらいなんでしょ!」

と何かにつけ言うようになりました。

 

そりゃそうですよね、嫌なところに毎日連れていくんですから。

息子にとっては牢獄以外のなんでもない。

 

このころから、教育について調べはじめました。

シュタイナー教育モンテッソーリ教育

ホームスクール、フリースクール

いろんな学びのかたちがあるのだと。

 

それでも、まだ「不登校」を受け入れられず、

「いつか慣れるよ」と思いながら、登校させました。

 

今思えば、傷口に塩を塗るような行為だったかもしれません。

もちろん、友達にも会えば楽しい気持ちになるし、

学校から帰ってきたときは、笑顔の時もあったし、友達と

楽しそうに帰ってくるのを見てて、安心したこともあります。

 

あ、

 

全部が全部学校NGではないんです。

知識も増えるし、できることも増えた。

 

子どもといる時間はたぶん、一般的な父親よりはるかに多かったはずです。

「寂しい思いをさせたくない」という思いから、なるべく一緒に時間を過ごし

同じ遊びをして。

 

ただ、元気でいてくれれば、オッケーなんです。

生まれた時とおんなじで、何もできなくても、オッケーだった。

それが年齢があがるにつれ、できるようになって、知識も増えて

学校にいけば、それを強制的に、当たり前のように求められ。

 

きつかっただろうなぁと思います。

家でも居場所がなく、学校にも居場所がなく。

 

登校時、仲のいい当時3年生のお姉さんに一緒にいってもらってました。

肩に手をかけ、いつも優しくしてれました。

 

家族でも、何度も話あいました。

妻のほうは、まだまだ、「学校に行かせないと」という思い込みが

あり、言い合いになったこともあります。

 

初めて、息子に大きな声を出したのもこの時。

なかなかいかない息子を説得しようと、でもいかなくて

妻が泣き出して、、、

ということがありました。

 

大きな声出すほどのことでもない。

この時の事はほんとに悔やんでいます。

あの時の息子の表情、娘も近くにいて、忘れられません。

 

あのとき、もっと自分が、ちゃんと説明して、自信をもって

「大丈夫!」と言えればよかったのですが。。

 

もちろん、学校に行かなくてもいい、とは思っていましたが、

ひとまず、学校にいってるから、今はそのままでいいかと。

 

その2に続きます。